オフワンスペシャルインタビュー Vol.4(前編)
1967年にカワサキが国産初のモトクロッサーをデビューさせた。パワフルな2ストローク・エンジンを軽量な車体に載せたそのF21Mは好評で、すぐにレーシングコースはカワサキ一色になる。しかし、ひとりだけ今回登場いただく山下さんだけが発売から6年経つCL72で参戦し続けた。そして彼と彼のCLは翌年のレースで優勝。強敵カワサキに勝ったのだ。バイク的には圧倒的に不利だったが、コツコツと理論的に改良を加えてほぼ同等に闘える仕様にまで完成させていた。今となっては夢のような話だが、常に「思えば必ず作れる」と信じて細かい作業を繰り返し続けた、山下さんだから成し得た結果でもある。そしてその頃から"足回り"の重要さにも気付いていた。
やってることは今も10代の頃と同じ
パーツが無ければ作ればいい
モトクロスをはじめたのは何歳頃のことですか?
「大学に入ってからです。走れば走るほどに、ラフロードでバイクの力を限界まで使って走るモトクロスに魅了されました。練習してある程度まで走れるようになると、楽しくてどんどんのめり込みましたね。レースに出るうちに成績も良くなって、優勝を争えるレベルまで上達しました。だからカワサキF21Mが登場したときは衝撃というより、あまりにもアッサリとまわりの選手が乗り換えてしまうので、逆に"CL72で勝ってやる"と燃えてきたんです。もっとも、学生だったから新車なんて買えなかったんですけどね。当時は『4ストでレースやるなんてアホだ』なんて言われましたけど、そう言われほど不屈の闘志がわき上がってきましたよ」
どんな対策をしたんですか?
「友達に頼んでチェリアーニのフロントフォークを手に入れました。8万円以上する高価なパーツ(当時の大卒サラリーマンの初任給が約2万円)でしたけど、リアもなんとか。でも、それを装着するだけでは安直でつまらない。そこでCLのサスとチェリアーニのドコが違うのか分解して研究したんです。すると両者の違いがハッキリしました。当時の国産車のサスペンションは伸び側にしかダンパーが効かなかったんです。つまり圧側のダンパーは無くて、ギャップの吸収はスプリングだけで行うという考え方だったようです。でもそれではジャンプのときフルストロークしてしまう。当然、チェリアーニにはどちら側もダンピング機能がついてますから、それと同じ能力を持たせるためにバルブを作ったり、オイルの回りを改良したり、フォークのストローク量を増やしたり色々と工夫しました」
それでカワサキの性能には迫れたんですか。
「車重にしてもCLが153kgあるのに対してF21Mは97kgという軽さでしたから、その差は簡単には埋まりません。そこで徹底的に部品を軽量化して117kgまで軽くしました。時間はかかりますがケースの厚みを削るなどの作業で、各部を少しずつ軽くしたんです。夏休みの間、ほとんどバイクの改良と軽量化のことしかやっていませんでした」
パーツを削って軽量化って、実際の作業は大変ですよね。工作機械や設備は整っていたんですか?
「学生の趣味の延長ですから、作業は自宅の軒先で工具なんてドリルと万力だけです。これは中学時代に親父に頼み込んで買ってもらったもので、モデルガンを自作しようと思ったんです。当時のモデルガンは金属製ですから、ボクも金属のかたまりを買ってきて、万力で固定してドリルで削りながらピストルの形にする......といったことをやっていました。その工具がバイクにも役立ったんです。鉄材を加工して部品を作ったり、パーツの強度過多な部分を削ったりといった作業には、その2つの工具を使いました。このとき実感したのは、時間さえかければ金属であっても思う形に作ることができる、ということですね。たとえ立派な工具が無くても、無心に手を動かせば形になるんです」
苦労して作り上げたバイクで優勝できたわけですから、感動的ですね。
「非常にうれしかった。でも、その後は勝ち続けることができませんでした。やはりパワーと軽さの利点を生かして、最後まで速いペースで走り続けるカワサキに置いていかれるんです。軽量化したとはいえCLは重いので、レース後半には腕が上がって勝負になりません。そうしているうちにヤマハからDT1が発売されました。これも魅力的なバイクでしたが、もちろん買えないのでCLで走り続けたんです。すると私のその姿をヤマハの人が見ていてくれて、プロモーション用のDT1を貸してくれたんです」
それは絶好のチャンスじゃないですか。
「嬉しかったですね。実際に走り出すと、その軽さと乗りやすさで笑いが止まらないんです。そしてCLで試してきたサスのモディファイをDT1にも加えたら、これが本当に最高のバイクになりました。このことで、ひとつ理解できたんです。それはバイクが新しくても古くても足回りを良くすることでさらに良いバイクになる、ということです。」
やはり足回りの重要性に気付いたことが、バイク業界で生きていこうと決めたキッカケですか。
「実際にその決断をするのは30歳を過ぎてからですが、最初に足回りのことに興味を持ったのはモトクロスをはじめた頃です。当時は多摩川河川敷にバイクが走れる場所があって、よく練習していました。そこには一般道と平行するウオッシュボードのようなストレートがあって、ある日ボクはそこを全開で走っていたんです。真横を見ると一般道を50ccのカブが走っていて、やがて抜かれてしまいました。それはショックな出来事で、道路が平らであればエンジンが非力でも速く走れる......その事実を見せつけられたんです。つまり路面のギャップを吸収してハネずに走れるサスがあれば、どんなバイクでも速く走れる、ということですから。その体験によってサスに対する興味が芽吹き、カワサキの登場によって心に火がつきました」
実際に大学を卒業してすぐにバイクの仕事をされたんですか。
「卒業して10年くらいは普通の会社に勤めるサラリーマンでした。でも家に帰るとバイクの改良や整備をする毎日だったんです。これは学生時代から続けていたことで、様々な人のモディファイを頼まれていました。ボクのCLに乗った人が『同じCLとは思えない軽快な車体』ということを口コミで広めてくれたので、副業としてはかなり繁盛していたんです」
若い頃からそれほどの信頼を得ていたということは、技術力に加えて色々な研究もされたんでしょうね。
「研究といっても、ひたすらクズ屋ヘ行って4輪用を含めたショックアブソーバーを大量に買ってきて、それらをバラして中身を見ていただけです。でも、そうやって多くのサスを見ることで、各パーツの"何のためのどんな機能を持っているか"ということまで考えるようになりました。そんなことを繰り返した経験は足回りのメンテナンスやモディファイを仕事にしたとき役立ったんです。ウチはどんなサスの修理でも断りません。これは今でも変わらないのですが、パーツを交換して直らない場合、どうにかなるパーツを作ってしまえば良いと考えているんです。普通の業者さんは修理経験の無いパーツは引き受けませんが、ウチではやったことのないサスが来ると逆に"なんとかしてやろう"と考えますね。この気持ちはCL72をモディファイしながらモトクロスをやっていた頃から、まるで変わりません」
そして30歳台中盤で本格的にバイク業界で働きはじめるわけですね。
「そうですね。頼まれごとのモディファイを繰り返すうちに、知り合いから『これだけできるんだから、開業すれば良いのに』と言われて、あらためて仕事として本腰を入れはじめました。1981年に世田谷に店舗を構え、国内4メーカーの新車も扱うバイクショップとしてスタートしたんです」
過去に扱ったことの無いサスペンションが持ち込まれると、そのサス用の特殊工具を作る。これは奥まった場所にあるナットを取り外しするためのもの。ボックスレンチを切ると強度が落ちるため、周囲を金属でおおって補強したもの。「整備やモディファイって、このような特殊工具を作ることからはじまるんです」
8月15日公開予定!後半に続く>>
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