マネージャーやメカニックを同行せず、一人挑んだ海外遠征。モロッコの乾いた風、激しい寒暖差、体調不良、そしてチーム内の誤解。藤原慎也は、心身の限界と向き合いながら走りきった。ここにあるのは、5日間の試練と確かな成長の記録である

孤独のスタート、乾いた風の中で

「今までの海外遠征は、マネージャーのビバーク大阪代表杉村さんをはじめ、仲間の加原さんやメカニックの亀田くんなどに支えられてやってきました。今回はこのダカールプロジェクトが始まって以来、初めてとなる一人での遠征です。全員いなくて、ほんとにひとりでした。日本人はいないし、何をするにも全部自分。イタリアとか好きな土地だったらいいんですけどね、モロッコは苦しかった」。
 藤原慎也は到着初日から、準備、整備、食事、書類確認まで全てを自力でこなした。乾いた空気は肌を刺し、日中の気温は40度近く、夜は10度台に落ち込む。昼夜の温度差が体力を削り、夜は乾燥で喉が痛む。「昼は暑いし、夜は寒いし、体調の変化が激しくて、眠れない夜が多かったです」。

 そんな中で迎えたプロローグ前日、ついに体に異変が出てしまう。「熱が出てしまったんですよ。ラリーでは“本番前に風邪をひいておけ”みたいな格言があるんですけど、まさか前日にひくとは思わなかった。めっちゃ厚着して汗をかいて、シャワーを出しっぱなしにして部屋を蒸して、ネットで経口補水液の作り方を調べて……、とにかく一晩で治そうとしました。13時間寝て、朝になってギリギリ熱が下がったんです」。
 微熱を引きずったまま、藤原はバイクにまたがった。プロローグを走り終えると、再びホテルに戻って横になる。「走れるかどうかわからないままスタートし、走りながら確かめてました。思ったより体が動いて、そこでやっと少し安心した感じです」。

最大の目的はCRF450RX Rallyのテスト

 藤原慎也が2026年のダカールラリーに参戦するプロジェクト、SMRP(Shinya Fujiwara Matsuo Manufacturing Racing Project)。3カ年を経て、いよいよ最終章の幕開けとなるのがこのモロッコラリーだ。藤原はスーパー国際A級のトライアルライダーだが、このSMRPが始まるまでロングディスタンス競技に参加したことはなかった。いわばラリーについては一から学ぶド初心者である。とはいえ、オートバイを扱う素養はプロライダーとしてやってきた天性のものを持ち、さらに人並みを遙かに外れた吸収力で短期間でラリーの実力を伸ばしてきた。昨年もこのモロッコラリーに参戦したが、その時はダカールラリーへのエントリー権を得るのが目的だった。無事完走でダカール出場の権利を獲得した藤原が、あえて2度目のモロッコラリーに出かけたのは、ダカールでの本番車となるホンダCRF450RX Rallyをテストするのが目的だった。

 SMRPが始まった当初はホンダで参戦したいという意思はあったものの、ホンダのラリーマシンと言えば純粋なファクトリーバイクであるCRF450RALLYのみ。Team HRCのシートは当然勝利を狙えるライダーのみに与えられるものであって、さすがに藤原には回ってくる望みはほとんど無い。そのため、KTMから450RALLYを購入したのだが、デリバリーでトラブルが発生してしまい藤原の手にこの新車が渡ることはなかった。藤原は、SMRPでの海外遠征の中で様々なバイクをレンタルして参戦してきたのだが、ついに今年初頭、ホンダが開発したファクトリーマシンの市販バージョンCRF450RX Rallyが発売されるというリリースが発表された。この待ちに待ったチャンスを逃すはずもなく、世界で50台限定の狭き門を叩き、いよいよこのホンダのラリーバイクは藤原の手に渡ることとなった。ただ、そのデリバリータイミングが遅く、バイクに初めて触れられるのがこのモロッコラリーだった……というわけである。藤原のモロッコラリーの目的は、このCRF450RX Rallyのシェイクダウンだったのだ。

 ステージ1は初っぱなから総移動距離780kmという長丁場。すっかり熱も下がり体調を戻しつつあった藤原は、午前3時半に起き、寒さに震えながらビバークを出た。「フリーズドライフードを食べてスタート。260kmのリエゾン、290kmのSS(スペシャルステージ)、さらに240kmのリエゾン。距離が長すぎて感覚がなくなる」。途中、速度規制区間でアラーム音とウェイポイントのコーション音が重なり、減速が遅れて1分のペナルティ。「それでも淡々と走りました。焦ってもしょうがない」。

 ステージ2では電子ロードブックのトラブルが襲った。「CP(チェックポイント)54を通ったはずなのに、通ってないことになってしまったんですよ。CP54をスキップしてOKか、という画面が出続けて、消えなかった。CP54を踏んだはずなのですが、逆走して探しに戻りました」。観光客のラクダや4輪のツアーが入り乱れ、轍は無数に交錯する。ゴール後にスタッフから「全部クリアしてる」と告げられた。しかしSS終了後にもロードブックがおかしくなり、帰路のリエゾン10km地点あたりで戻ってスタッフに報告していたらTC(タイムチェック)に10分遅れてしまった。

 マシンにも調整が必要だった。「砂丘ではギア比が合ってなくて、体の消耗が激しかった。リアスプロケットを51Tから52Tに変えて、4速を長めに使えるようにしました。ちょっとの違いですけど、これで一気に楽になった」。サスペンションは新品でまだ硬く、「プロローグで一段戻したけど柔らかすぎた。ハイスピード区間の安全性を考えて固めに戻して、そこからまた1クリック緩めて突き上げを減らす。そうやって毎日探ってました」。

誤解の夜を越えて、最終日の光へ

 だが、最も苦しかったのは人間関係だった。ステージ3の夜、チーム内で誤解が起きた。「内容は言えないんですけど、誤解されて悪者扱いされて、『明日から走らせない』って言われたんです」。翻訳アプリで必死に説明しても伝わらず、気持ちはどん底に落ちた。「車の中で吐いて、ホテルでもまた吐いて、立てなかった。それもあって脱水症状が起きてしまって、オレンジジュースと水と塩で自分で経口補水液を作って、バナナとオレンジだけ食べて寝ました」。

 なんとか走れることにはなったものの、誤解を抱えたまま迎えたステージ4は、どん底の精神状態からのスタートだった。体は軽くない。頭も晴れない。それでもナビゲーションコンピューターを起こし、コマを送る。「危ないシーンが多いんですよ、ラリーって。バーンってバイクごと投げ飛ばされて、運良くうまい体勢で着地してセーフみたいなのが1日に何回もある」。ハイスピードの直線は固め直したサスペンションで受け、細かな突き上げが気になる区間はワンクリックだけ緩めて衝撃を逃がす。結果はこのラリーでの最低順位、まさに「どん底」だったが、致命傷はつくらなかった。「1歩間違ったら大事故、みたいなぶっ飛び方をするから、余計に気持ちが落ちる」。それでもコースを外さず帰ってきた。

 ビバークに戻っても空は晴れない。「帰ってきても、まだ前夜の疑いが晴れてなくて。翻訳アプリでむちゃくちゃ長文を書いて説明しても伝わらない」。チームのボスは硬い表情のまま、だが、その夜のやり取りで空気が変わる。身振り手振り、スクリーンに打った言葉、時間をかけて一つずつ積み上げ、ようやく誤解がほどけた。「ほんとにごめん、悪かったって言われて」。薄氷の上に、やっと載った安心。ここで初めて気力・体に力が戻る。

 最終日であるステージ5。「最終日はもう気持ちよく飛ばして、気持ちよくゴールしました」。マシンセッティングもここへ来てコースにマッチし、電子ロードブックも静かに仕事をし、アラームの音も今日は正しく聞こえる。最終日はリザルトを少し上げ、ラリー全体としても“去年とは別人”のアベレージを刻んで終えた。「スムーズじゃなかったけど、ちゃんと走れた」。

 ゴール後、藤原は静かに整理する。「マネジメント能力は上がったと思います。自分の体も気持ちも、自分でマネジメントしなきゃいけないから」。食事はチームの誘いを断ってまで栄養を取ることに専念し、ホテルでも工夫して湿度管理に気を使うなど、眠れる条件を自分で作っていった。「結果的には全部オールオッケーで、いい感じなんですよ。信頼関係も強まったので」。

 完走の安堵よりも、次への視線を語る言葉が先に出る。「ホンダで走るのが理想です。日本のメーカーのバイクで世界最高峰を走る。それが夢です」。CRF450RX Rallyは「市販モディファイの域を超えて、ファクトリーのノウハウが入っている」と言い切れた。砂丘でのギア比、ハイスピード区間の姿勢、振動の少なさ、いずれもダカールの長丁場を見据えた助けになる。唯一、宿題として持ち帰ったのはシートだ。「もうちょっと硬く、幅も出して、高さも少し上げたい」。国内でラリー向けシートを制作するオーソリティ、野口シートに託すつもりだという。マシンはイタリアへ戻り、整備を受けてスペインの港から船に乗る。藤原も準備を続ける。「運は自分で引き寄せるもんだと思ってる」。モロッコの5日間は、ドラマの幕ではなく、プロローグの終わりだった。次の章のタイトルはもう決まっている。いざダカール、である。